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第196話 それでも、生きていてよかった⑥

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-08-19 06:01:24

「書かないと、不安になるの」

 私は正直に答えた。

「書いておかないと、また誰かに違う形で覚えられてしまう気がする。私が何を見て、何を感じて、何を選んだのか。残しておかないと、消えてしまう気がするの」

 透はすぐには返事をしなかった。

 包帯の巻かれた右腕を膝の上に置き、ゆっくり息を吐く。窓から差し込む光が、彼の火傷の痕を覆う白い布を淡く照らしていた。

「消えない。……少なくとも、僕が勝手に消さない」

 やがて彼は低く言った。

「君の声は、僕の中に残っている」

 顔を上げると、透はまっすぐ私を見ていた。

「君があの温室で何を言ったか。僕の手をどう掴んだか。僕がまた一人で残ろうとした時、君がどんな声で怒ったか。僕は覚えている」

 肋骨の内側が、痛いほど静かに震えた。

「でも、人の記憶は曖昧よ」

「そうだな。だから、君が疑うのは間違っていない」

 透は小さく頷いた。

「だから、記録は必要だ。君が書くことも、僕が覚えてい
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    「……透さん?」 顔を上げると、いつの間にか下のコンビニに行っていたらしい透さんが、私のデスクの横に立っていた。 彼の手には、自分の分のサンドイッチとコーヒーが握られている。「休憩だ」 彼は短く言い、私のデスクに置かれた紙コップを指差した。「ほうじ茶だ。コーヒーより、胃に負担がかからないと思って」 それから、白い紙袋の中身。 紙袋の中には、卵サンドが入っていた。「……私、今、あまりお腹は」「空腹だと、大事な話を聞き漏らす」 透さんは私の言葉を遮るように言った。 私はほうじ茶の紙コップに手を伸ばした。 温かさが、冷えていた指先にゆっくり戻ってくる。「……ありがとうございます」「いや」 透さんは自分のデスクに戻り、サンドイッチの封を切った。 私たちは無言のまま、ただ遅い昼食のようなものを胃に流し込んだ。 しばらく、紙の擦れる音だけが続いた。 ほうじ茶を飲むうち、浅かった呼吸が少しずつ元に戻った。 外が暗くなり、事務所の蛍光灯が青白い光を落とすようになった頃。 再び、デスクの固定電話が鳴った。 午後七時。 私は反射的に受話器を取った。「はい、水科です」 電話の向こうは、昼間情報を繋いだ管轄の児童相談所の担当者だった。『児童支援基金さんですか。昼間の件で、ご連絡です』「はい。どうなりましたか」 私はボールペンを握り直した。『先ほど、警察と同行して家庭訪問を行いました。……詳細は個人情報のためお伝えできませんが、児童本人の安全は確保されました。現在は、こちらで一時的に保護しています』 安全は、確保された。 その言葉を聞いた瞬間。 握りしめていたボールペンから、ふっと力が抜けた。 それ以上は尋ねなかった。 受話器の向こうから伝えられたのは、それで十分だった。「&

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第207話 番外編2-2「待つしかない」

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  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第206話 番外編2-1「急に静かになった」

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     私の手の中にあるのは、具が少しだけはみ出した、明らかに小さい方だった。 透さんの左手には、皮がたっぷりと残り、重量感のある大きい方が握られている。 透さんは自分の手の中の断面と、私の手の中の断面を、交互に見比べた。 そして、考えるよりも先に、反射的な動作で、自分の手にある大きい方を私の方へ突き出してきた。「こちらを」「え?」「君の方が小さい。取り替えるべきだ」 彼の瞳は真剣そのものだった。 迷いのない動きだった。「半分に割る約束でしたよね」 私は自分の手にある小さい方を、彼の前に掲げてみせた。「どう見ても、これは半分ではありません」「……あぁ」 透さんの顔に、目に見えて焦りの色が浮かんだ。「すまない。左手だけだとうまく力が入らなかった。次は、もう少し正確に割る」「そこまで正確じゃなくて大丈夫です」「だが、不公平だ」「怒られると思いました?」 私が不意に尋ねると、透さんの唇が微かに引き結ばれた。 病室で、均等でなければ私に怒られるかもしれないと、真顔で心配していた人だ。「……君は、適当なことを嫌う」「怒るところを少し間違えています」 私は笑いを噛み殺しながら、彼の手の中にある大きい方の肉まんをじっと見た。「取り替えませんよ。私が自分で引いたんですから。透さんは、それを食べてください」 透さんはまだ納得がいかない様子で自分の手の中の肉まんを見つめていたが、私が先に小さい方を口に運んだのを見て、ようやく諦めたように左手を顔に近づけた。 はふ、と皮を噛みちぎる。 熱い餡が舌を焼き、濃い肉の旨味と玉ねぎの甘さが一気に口の中に広がった。 湯気が鼻の頭を撫でていき、冷え切っていた頬の皮膚が、内側からじんわりと温まっていくのがわかる。 熱さと、少しの甘さ。「……おいしい」 ただ、それだけが口からこぼれた。 飾らない、ありふれた

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第204話 番外編1-2「『普通』はどれだ」

     大通りに出ると、車の排気ガスと、冷たいアスファルトの匂いが混ざり合った風が頬を打った。 交差点の角に、見慣れた看板が光っている。 自動ドアの前に立つと、ウィーンという軽い電子音とともに、人工的な暖気と、おでんの出汁の匂い、そして微かな揚げ物の油の匂いが押し寄せてきた。 完璧に空調が整い、防虫剤と清潔なリネンの匂いが漂っていた天野の本邸とは、まるで違う空気だった。 透さんは自動ドアの敷居を跨ぐ時、まるで未知の領域に踏み込むかのように、少しだけ肩を強張らせた。 普段の隙のないスーツ姿ではなく、今日はシンプルなニットの上にコートを羽織っているだけのラフな格好だというのに、彼の周囲だけ、空気が数度下がっているような錯覚を覚える。 店内に響く陽気なBGMが、彼の硬い表情とちぐはぐで、なんだかおかしかった。 私たちはレジ横の保温ケースの前に立った。 曇ったガラスの向こうに、丸みを帯びた白い塊がいくつも並んでいる。 私はバッグを足元に置き、財布を取り出そうとしたが、透さんが無言で一歩前に出た。 彼はガラスケースの中を、まるで企業の買収案件の資料でも読み込むかのように、真剣な眼差しで凝視し始めた。「……種類が多いな」 低い呟きが落ちた。「肉まんだけで、こんなにあるのか」「季節によって変わるんです。どれにしますか?」「君の希望に合わせる。……どれが普通なんだ」 店員がレジの奥から不思議そうな顔でこちらを見ている。 私はこみ上げてくる笑いを必死に腹の底へ押し込んだ。「一番普通のでいいです」「だから、その普通はどれだ」 透さんが真顔で私を振り返る。「透さん」「なんだ」「一番右上の、百五十円の肉まんです」 私が指を差すと、透さんはようやく納得したように頷き、店員に向かって「一番右上のものを一つ」と告げた。 手慣れない手つきで左手だけで財布から小銭を取り出し、会計を済ませる。 渡された小さな白い紙袋からは、じんわりとした熱

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第203話 番外編1-1「退院したら、最初に」

     自動扉がスライドする低いモーター音が響き、淀んだ暖気が背後から押し出される。 一歩踏み出した途端、肺の奥を刺すような冬の冷たい外気が、コートの襟元から容赦なく滑り込んできた。 アルコール消毒液と、アイロンの当てられたシーツの匂いが、鼻腔から急速に薄れていく。 私は首元のマフラーを少しだけ引き上げ、冷え切った空気を深く吸い込んだ。「……荷物」 隣で、低く、少し掠れた声がした。 振り返るより早く、私の右手に提げていたボストンバッグの持ち手に、大きな手が伸びてきた。 長くて骨ばった、見慣れた指先。 しかし、その手は彼の左手だった。 視線を上げると、透さんがわずかに眉を寄せたまま、私からバッグを奪おうとしていた。 濃紺のウールコートの下、彼の右腕はまだ厚いガーゼと包帯で覆われ、胸の前に固定されている。火災の熱が皮膚を焼き切った生々しい痕は、まだ治癒の途中だ。 自分の身体が万全ではないのに、彼の中の何かが、反射的に私の重さを肩代わりしようとしている。「だめです」 私は持ち手にかかった彼の左手に、自分の左手を重ねて止めた。 冷たい外気に晒されていたはずなのに、彼の指先からは微かな熱が伝わってくる。「重くありませんから。着替えが数枚入っているだけです」「だが、君も退院したばかりだろう」「透さんこそ、その腕でバランスを崩したらどうするんですか。まだ無理をしていい時期ではないと、お医者様も仰っていたはずです」 私の言葉に、透さんはかすかに息を詰まらせた。 彼は自分の右腕に視線を落とし、それから、私がきつく握りしめているバッグの持ち手を見る。 透さんは重ねられた私の手をしばらく見ていた。やがて、ゆっくりと指先の力を抜いた。「……わかった」 左手が、名残惜しそうにバッグの持ち手から離れる。 私は彼の手が完全に引くのを待ってから、バッグを提げ直した。「本当に行くのか」 病院のロータリーへ向かうタイル張りの道を歩き出しながら、透さんが

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第8話 生まれた場所だけが違った②

     すぐに、排気ガスと人工的な芳香剤が入り混じった、軽自動車の狭い密室に閉じ込められる。 後部座席のシートに、無造作に置かれた。 小さな身体を固定するものは、何一つない。 エンジン音が耳元で唸り、車が乱暴に発進する。 カーブのたびに、身体が床に転がり落ちそうになり、短い手足を必死にばたつかせて、どこかへ縋り付こうともがいた。「マジで、産まなきゃよかった。金ばっかりかかって、夜も出歩けねえし」 運転席から、冷たい呟きが吐き捨てられる。 言葉を持てないというのは、こういうことなのか。 自分の意思を伝える手段がない命は、こんなにも簡単に「モノ」として扱われ、消費され、見捨てられていく

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第7話 生まれた場所だけが違った①

     視界が、白く濁っていた。 ピントが合わず、輪郭のぼやけた光の染みのようなものが、ゆらゆらと揺れている。 自分の手足を動かそうとした。 だが、手足は水を含んだ綿のように重く、思うようには動かない。空中でばたばたと不規則に揺れるだけだった。「あー、あー」 言葉の代わりに口からこぼれたのは、意味にならない息と、細く情けない鳴き声だった。 顔の前で、小さな手が頼りなく揺れている。 皺だらけで、赤くて、何かを掴む力すらほとんどない手。 その小ささを見た瞬間、胸の奥に安堵が滲んだ。 生きている。 どんな奇跡かはわからないが、もう一度、やり直せるのだ。 あんなふうに、悪意のある切り

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第6話 退勤後の非常階段③

     ドアが背後で重い音を立てて閉まると、オフィスの喧噪が完全に遮断された。 シン、とした静寂。 遠くで車のクラクションが聞こえるだけの、無機質な空間。 一段、また一段と、階段を降りる。 パンプスのヒールがコンクリートを叩くカツッ、カツッという音だけが、やけに大きく響いた。 ブーッ、ブーッ。 スーツのポケットの中で、またスマートフォンが震えた。 骨に響くような、不快な震え。 取り出して、画面を見る。 見知らぬアカウントからの、直接のメッセージ。『人として恥ずかしくないの? 死ねばいいのに』 言葉は、見えない刃だ。 切り取られ、加工され、匿名という安全な場所から投げつけられ

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第5話 退勤後の非常階段②

    「会社としては、橘さん個人の意図を問題にしているわけではありません」 人事担当の女は、柔らかな声で、けれど一切こちらに踏み込まない距離を保ったまま言った。「ただ、現時点では関係各所に大きな混乱が生じています。しばらくは出社を控えていただく可能性も含め、会社として適切な対応を検討します」 適切な対応。 その言葉の中に、橘日和の弁明が入る余地は、どこにもなかった。 午後。 オフィスには、目に見えない透明な壁が立っていた。 斜め向かいの紗耶の席は、空席だった。『ショックで過呼吸気味になって、早退したらしいよ』『そりゃそうだよね。信じてた同期に、あんな風に責任押し付けられそうになっ

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